悩むもの・悩まぬもの

「脳というのは基本的に怠け者であり、楽をしたがるようにできている」

このようなフレーズは10年以上も前から医学者や心理学者がよく言うのを耳にしたり目にしたりしますよね。実際、弊社の研修でも脳の話をするときに使うこともあります。

さて、最近の事象でこんなことがありました。

ある人から「本人がとってもやりたい」ということを、私がそれをやるには困難な状況だったにも拘らず、ただ「やってほしい」とお願いされました。

私が客観的に観て「その人がやりたい」のだから、そもそも「その人が自分で出来ること」を基軸に考えれば、実現するための解決策は出てくるわなあ~と、いくつか私の脳内では具体的アイデアも思い浮かびました。

ただ、残念ながら、彼女は最初から私(他者)に依存するという選択しかしていなかった様子(他の対案はナシ)だったので、私が物理的に無理だと告げたところで、その瞬間、彼女のその日の「やりたい」は実現不可能になりました。

ここで、みなさんは

「なんでそのアイデア教えてあげないの?そんなの思いつかない人は思いつかないじゃん。」
「出来る人は出来ない人にきちんと教えてあげるべきだよ。」

と思うタイプの方ですか?

私が実現できるであろうと思いついたアイデアを伝えたら、確かにその日、実現出来たでしょう。
しかし、人に言われて、すぐ出来るレベルなら、既に自分で思いつくことが出来る力は本人の中に在るんです。

つまりは、自分で考えるのが面倒くさいだけなのです。

わからなーい。
教えてー!

出来なーい。
やってー!

そう言っていたら、親切な周りの人が全部やってくれた!
⇒なんてラクな人生でしょう。

しかし、自分で考えたり、判断したり、行動すべきことを、すべて、ITや、他者まかせにしてしまえば、脳の機能は明らかに低下していきます。考えないことに慣れてしまうと、人は、そのうち考えようとしても考えられなくなってしまう。相手のラクの追求に乗ってあげることは本人の真のHAPPYなのでしょうか?

少なくとも、自分の子育ての中で、知的障がいのある息子に対しては、自分で思いつくことが出来る力は本人の中に在るということを確信してほしかったので、いくら「効率化の女」と言われる私でも、むやみやたらに正解を教えることはしませんでした。

こうしたアプローチで、ウチの息子の場合は、時間はかかっても、自分で自分なりの行動アイデアが出せるようになったと思います。

とはいえ

面倒くさいのはヒトの本能!脳はサボリ魔だからしょうがない!自分が何もしなくても、出来る誰かがしてくれればいい!してくれたらラッキー!こういう刹那的な生き方や人生が実在するならそれでいいじゃん!!って人も居ることは、思い知りました。

また、それとは対極的に、目が覚めている間は考えを深くし、自分だけでなく周りのHAPPY、全体最適とは何か?を熟考しつつ、トライ&エラーの実践を繰り返しながら仮説と最適解の探究をしていくことに幸せを感じる…という人生も、これまた実在すると思います。

平和な日本、どちらの生き方を選び、どちらの人生を歩むかは自分の自由です。

 

私が小学生だった頃、美術の先生に熱く勧められた、山岸凉子先生の作品「妖精王」でこんな台詞が出てくるシーンがあります。

「妖精王」の画像検索結果

主人公のジャック少年が仲間の怪我を治そうと井戸の中に入ると、

そこには「悩まぬもの」「悩むもの」と書かれた二つの薬の瓶があり、

ジャックが「悩まぬものって?何?」と触ろうとすると、井戸に住む妖精に「それに触るな、死にたいのか!」と言われて制される…。

なぜ、死ぬ薬が【悩まぬもの】で生きる薬が【悩むもの】なのか?

人間は生きている限りは「悩み続ける」⇒即ち【悩むもの】は、生を呼びもどす為の薬。

反対に、【悩まぬもの】になるということは、冥界という悩む必要のない世界の住人になることに繋がり、生を断ち切る為の死の薬。

…人は生きている限り「悩む=思考する」と仮定すると 「悩まない=思考しない」とは、もはや死んだ状態になるのかな~怖いなあ~と、子ども心に感じたことを思い出しました。