同窓会での会話の変遷
土曜は中学3年の同窓会でした。
気遣いのできる幹事の皆さんのお陰で、年に数回邂逅を深められる機会
若いうちは恋愛の話だったり仕事の話も多かったように思いますが
44~45歳という年齢になると多いのが思春期以上の子どもの話や介護の話題。
ある意味子育て一段落派の私は今回、主に「介護」の話題に・・・。
今回たまたま、同じ症状を抱える親(義親)を持つ二人がいて
着替え、食事(一人で食べる)、排泄、入浴などの日常生活は自分でできるし
他人(深く関わらない人)とのコミュニケーションもいたって普通なのに
特定の人物(一番お世話になってる人)にはコミュニケーション不全という介護生活の話を聞きました。
「嫁は財産狙いで私を早死させようとしている」
「娘はご飯もろくに食べさせてくれない」
「娘に監禁されているので逃げてきた」
といったことに似たような【言刃】の数々を向けられる日々。
これといった特効薬も手立てもないので
かなりしんどい毎日のはずです。
・・・が、私の友人たちは自分のことを決して
「悲劇のヒロイン的」に語りません。涙も見せません。
「2日前は夜中にこんなことがあったわ~」
「うちの場合は◎◎だったよ。▼することが良かったみたい」
事実というか、「コト」にフォーカスして語ります。
・・・かといって、無理して(気持ち)本音を語らないというような感じでもありません。
「うわー、それはえらいね。しんどいよね」と言うと、
「そうなのよ~。しんどいのよ・・・・」と乗っかることなく、
「そう言ってもらえるのは嬉しいよ。ありがとね~。
ただ本気で全然えらくもないと思うわ~。ついつい本人に言い返しちゃうことだってあるし、
今日みたいに飲みにも時々行っちゃうしねぇ(^^)」と応える。
オトナは「言っても詮無いことは語らない」のだなと思いました。
「うれしいこと」「たのしいこと」もそうですが
「つらいこと」「悲しいこと」も
共に感じて欲しいと思うのが”女性性”と言われます。
現に、多くの女性が、つらすぎたり悲しすぎたりすると
思いの丈を吐露します。
信頼出来る特定の人だけならいいのですが
誰が見るかわからない公の場(ブログやSNS、ツイッターなど)にも
まるで無防備に・・・。
多様性の社会で不特定多数の人に対しなぜそんなリスキーなことをするのかといえば
「私は、私の気持ちをわかってほしいの!」という欲求が何よりも勝るからなんでしょうか。
自分の気持を共に感じて欲しいというのはこんな私にもある感情なのでわかります。
わかるのではありますが、30歳過ぎたら「気持ちわかってONLY星人」は卒業したい。
「ひどいよね~」「そう思うでしょ~!」的な同調コミュニケーションよりも
受け手側の視点を忘れない「しなやかなオトナの女性のチカラ」を持つ方がステキ。
なぜならば、受け手側、客観的な視点に立つと
いわゆる主観的な「愚痴、不平、不満」は自然となくなります。
まあ、「不安」はあるかな~。それは共有してみてもイイですね。
別の視点が入ると解消することも多いから。
今回友人たちは、特に共に【自分と同じ気持ち】を感じることは求めておらず
【一緒の時間と空間】を共有することでリフレッシュできたようです。
つまり、何が言いたかったかというと「他責」ではなく
まるっと現状を受け止める器を持った「私の友達はしなやかでカッコイイ」
そんな友人を誇りに思う・・・ということと、
オトナっていいよね~!!!!という、オトナ礼賛でございました。